一社労士の「芽」

ヤングケアラー予備軍だったようです

令和3年3月17日に「ヤングケアラーの支援に向けた福祉・介護・医療・教育の連携プロジェクトチーム 第1回会議」が開催されました。

ヤングケアラーとは、「本来大人が担うと想定されるような家事や家族の世話などを日常的に行っている子ども」と定義されています。
障害や病気の家族の世話をしている18歳未満の子どものことです。

以前からあった問題だと思いますが、日本社会の特徴としての「家族同士の当然の助け合い」という考え方に隠され、例えば子どもが学校に行けなくなる等、本格的に生活が破綻し始めなければ気付かれることがなく、「個人的な事情・問題」として片付けられてきました。

私の学生時代の友人にも家計を支えるため、毎日学校が終わると営業時間終了までアルバイトをし、パート労働者並みに働いていた子がいました。
その子の場合は親御さんが割と年齢が上の方で、ご病気で仕事の継続が難しくなったことが始まりでした。

厳しい中でもまだその友人が救われたのは、友人自身がしっかりしており担任の先生に相談できたこと、公立だったので学校を通じて授業料免除等の援助を受けられたこと、です。

ただ、一般的には、前述のとおり日本社会の考え方という縛るものや、それらによる家族の固定観念や周囲の人の目があり、また18歳未満という若さから誰にどこに相談したら良いかも分からず抱え込んでしまうことがほとんどでしょう。

実は、私自身もヤングケアラー予備軍でした。

何度かブログで取り上げたことがあったと思いますが、母が先天性下肢障害者です。
物心ついた時には数年置きに母は入院・手術を繰り返しており、経済的に恵まれた家庭でもなかったので生活はいつも厳しかったと記憶しています。
加えて母のサポート役に当たる祖母も中途下肢障害者だったので、手伝い手としても精神的にも十代の頃から非常に依存されてきました。

前述の友人とは家庭環境が似ていたこともあり、お互いに良い聴き役でしたね。

私はそれでも高校までは何とかヤングケアラー予備軍に止まっていましたが、やはりそれを含む家庭事情によって進学は叶わず就職しましたし、就職2年目には母が大きな手術を受けそこから3年間無職、その後も社員として再就職することができず定年までいったので、振り返ってみてもいわゆる「輝き楽しかった20代30代」なる青春的なものはありませんでした。

御多分に漏れず、祖母も母も日本的家族観だったので、家族が助け合って当たり前(負担が大きくとも)、長子が家庭を支えて当たり前(家計を含めて)、ということで、彼女たちが老齢期となるまではいつも無言のプレッシャーがありました。
祖母も長子でそういう生き方を強いられてきたので、それが負の連鎖、ヤングケアラーの再生産に寄与してしまったこともあるのでしょう。(ヤングケアラーもアダルトチルドレンの一種なのかもしれません。)

今思うと、社会保険労務士という職業に関心を持ったのも、それらが大きく影響しています。
本来の自身の将来の夢は教職だったのですが、働きながら大学に通うまで4年遅れ、教職を改めて目指すには当時は年齢的に実質無理だったこと、それならば何かで身を立てて経済的に安定しなければならなかったこと、社会保障や社会福祉に通じる必要性が高かったこと。
大きく影響しましたね。やはり。

今後は公にプロジェクトチームが発足したこともあり、より適切な時期に十分にヤングケアラーに対してフォローできる体制が整備されていくのだろうと思います。
そして何より行政に望むのは、自身の責任ではないことで苦しい環境にある子ども達が将来を諦めずに済む社会にすることです。
それは家族のケアへのフォローや経済的支援という直接的なものだけでなく、教育の機会を奪わないであげて欲しいです。

教育の機会を奪われることは、生涯収入にも生涯設計にも大きく影響します。
そうではないと言いながらも、私達の社会は未だに、そしてこれからも学歴社歴社会です。教育は目減りしない唯一の財産であり、貧困から抜け出す一番の手段です。

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